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「葬式仏教」は仏教側の問題なのか。

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揶揄される日本の仏教

日本の仏教はしばしば、「葬式仏教」と揶揄されます。

信仰の対象としての価値が失われ、本来の仏教の在り方から大きく外れてしまい、もはや葬式をやるためだけに存在しているように感じることからそう貶されます。

普段生活する上で仏教を意識することは多くありません。

ましてや日常的にお経を唱えるようなことも、ご年配の方だけがするイメージがあります。

それでも身内が亡くなれば、否応なしに仏教式の葬儀を準備することになるでしょう。

また問題とされるのはそういう意識の希薄さだけではありません。

普段まったく意識しない上に、亡くなったとたん高額な葬儀費用を要求されることに人々は疑問を持ちます。

身内が亡くなってかかる費用は葬儀一式だけに留まりません。

読経料や戒名料、葬儀後の接待飲食費用など、いくらご霊前(ご仏前)をお供えしていただけるとはいえ収支がプラスになるとも限りません。

今日の仏教の在り方に対する人々の不満は枚挙に暇がありません。

でもこういう仏教の在り方は本当に問題なのでしょうか?

仏教式葬儀の起こり

仏教式葬儀が行われる以前、貴族層は土葬や火葬、庶民は供物を備えて川岸や林に遺体を捨てるスタイルの葬儀を行っていました。

そして6世紀に仏教が伝わり、のち鎌倉時代に今日まで続く浄土真宗や浄土宗、曹洞宗、日蓮宗といった宗派の開祖が生まれ彼らが葬儀を執り行うことになりました。

これは日本の仏教史において非常に革新的な出来事です。

奈良時代、僧侶は国家に仕え国家安寧を祈祷することを役目としていました。

彼らにとって死は穢れでした。

そんな折、救いを求める庶民に目を向け、穢れを恐れずに葬儀を行うことにしたのが鎌倉仏教の開祖らです。

鎌倉の頃になると、「南無阿弥陀仏」と唱えれば成仏できるという浄土信仰は広く浸透していました。

そこに葬儀を結びつけることは難しいことではありませんが、穢れを恐れず庶民の願いに応えるということは大きな進歩だったのです。

葬式仏教の起こり

仏教が葬儀を執り行うようになったからといって、すぐに「葬式仏教」と揶揄されたわけではありません。

明治頃まではむしろ、「葬式も」行う仏教という見方をするほうが自然でした。

それがどうして「葬式だけ」行う仏教になってしまったのでしょうか。

これは江戸時代に整備された「檀家制度」が大きな影響を与えています。

キリスト教の渡来によって各地の大名が外国と手を結んだり、信者同士が結束してしまえば体制の安定は脅かされます。

そこでキリスト教徒ではないことを証明するための、日本独自の檀家制度を整備しました。

参詣や法要などの年中行事の強制参加、寺の改築費用や上納金というお布施をすることなどを檀家に強いました。

もし支援が滞ることは仏教徒ではないことを表明することとなり、住職は先祖供養も何もしてくれなくなってしまいます。

そういうお金のやり取りが主となって、僧侶という職権が濫用されれば当然批判の声も大きくなります。

江戸初期から溜まっていた庶民の鬱憤はついに明治維新後、廃仏毀釈運動という形で爆発しました。

この運動を受けて幕府は無教養の僧侶の追放なども行いますが、その甲斐なく現代でも檀家制度は依然として存在しています。

お布施を強要するようなことはないにしても、江戸から明治にかけての不満と批判運動の空気が残っているのか、庶民が仏教に深く関わることはなくなってしまいました。

仏教離れは仏教側だけの問題か

以上のような歴史を見てみると、仏教が葬儀を請け負うことは賞賛されるべきことだと感じても、葬式仏教となったことや庶民の仏教離れは僧侶の怠慢のように感じます。

しかしこれは、一概に仏教側だけの問題だとは思えません。

仏教(宗教)教育の希薄化

国民の9割が上座部仏教を信仰するミャンマーは、男性なら一度は必ず出家するほどに敬虔な仏教大国。

僧院学校と呼ばれる、お布施によって運営される学校が小中高あわせて1500以上あるそうです。

僧院とあるくらいですから、教鞭を執るのはもちろん僧侶。

公立の小学校が十分に整備されていないミャンマーでは貴重な教育機関です。

そんな中で僧院学校が運営を維持できるのは国民の篤い信仰があればこそ。

日本ではどうでしょうか。

発展途上国と比較するのは適切ではないかもしれませんが、学ぶところは多いと思います。

仏教に無頓着であることをよしとする風潮は、仏教側でなく我々庶民や国、教育機関側が作ったものです。

誰にでも訪れる「死」に向き合って、供養してくれる仏教を蔑ろにしているのに「葬式仏教」と揶揄するのはいかがなものでしょうか。

「仏教を信仰せよ」ということを言いたいのではなく、「仏教に触れよ」あるいは「宗教に触れよ」ということを言いたいのです。

僕が学校の授業を思い出す限り、仏教は歴史の中の出来事として片付けられていたように感じます。

「葬式仏教」という現代における仏教の問題を知ったのも、個人的に仏教に触れてから知ったことです。

唯一、学校内で今日の仏教に触れたのは修学旅行で行った法隆寺の住職の説法くらいです。

中学3年生のときですからもう記憶に薄いですが、なんとなく面白いと感じていたと重います。

これは仏教そのものに、というより住職の話を、ですが。

それでも中3の、頭の悪かったころの僕ですら「面白い」と感じることができたわけですから、高校生にもなればもっと興味を持てたはずです。

でも高校ではより暗記するだけの勉強が主になり、生きる智慧を教えるような授業はひとつとしてありませんでした。

ITの発達

戦争が終わり、ITが発達してくると今まで民衆の共有意識として存在していた各宗教は力を失いました。

そのかわりに、個人個人の意思が尊重されるようになって新たな問題が生まれました。

食べ物を温めたいと思えば電子レンジで、服を洗濯したいと思えば洗濯機で、何から何までボタンひとつで済むと人々はなにもかもが自分の思い通りになると勘違いし始めます。

そういう意識の中で思い通りにならないことがあると、感情が爆発したり引きこもったり自殺したりそれまで起こりえなかった問題が多発します。

思い通りになるという思い込みを持つ人々にとって、宗教、特に仏教のような思い通りにならないことを真理とする教えは認めることができません。

こういう時代背景もあって、日本のような急いで先進国になった国ではなおさら宗教はすさまじいスピードで衰退していきます。

終わりに

仏教式葬儀はもう廃止することができないほどに広まりました。

もし廃止されれば今お寺が管理するお墓も機能しなくなって、火葬した遺体を置く場所に困ってしまうかもしれません。

仏教に無頓着であって困るのはお寺でなく、自分たち庶民の側です。

お寺が葬儀をしてくれなくなったあと身内が亡くなったら、土葬が許可されない日本でどう供養しますか?

仏教式葬儀を問題とするのは、仏教側からしてみればたいへん遺憾なことだと感じるでしょう。

「あなたたちが救いを求めていたから手を差し伸べたのに」と悲しむことでしょう。

檀家制度という仏教側の問題は、異教の侵略を恐れたが故の致し方ない制度です。

「葬式仏教」という言い方は、庶民の中にまだ敬虔な仏教徒が多かったとき、制度を濫用してのさばった悪しき僧侶を批判する気持ちで出た警告だったと思います。

そういう批判を真摯に受け止め改善しようとする諸宗派の動きがある中で、正しい歴史を知らない人間が「葬式仏教」というのはナンセンスでしょう。

仏教について今一度考える時間を設け、僧侶も積極的に教育に関わっていくことができればいずれ、「葬式も」行う仏教に立ち返ることができるだろうと思います。


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