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人はなぜ「洗脳」され、「信じる 」のか

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日本人の「信じる」癖

6月18日、オウム真理教の教祖・麻原彰晃を名を騙り「私の死刑中止しなければサリン撒く」という旨のメールが山梨県ホームページに届いた。

結局、不審物は発見されなかったので悪質ないたずらとして処理された。

20年前の事件ではあるが、麻原彰晃はまだ死刑執行には至っていない。

これは彼が死ぬことによって起こりうる、彼の神格化と拘置所の聖地化やそれに伴う信者の集会や暴動を苦慮しているためだと言われる。

そしてこの未だに存在する信者は事件当時にはまだ生まれていなかった、あるいは年端も行かぬ子供だった人間もいるそうだ。

若者を勧誘する手口はこうだ。

・まず名前を伏せてヨガ教室などと称して勧誘する。

・次に麻原の名を出さずに、地下鉄サリン事件は教団以外の人間によって仕組まれた陰謀だと説明する。

・最後に、勧誘者と親しくなったところで信者になるように促す。

当時の記憶も薄い若者にとって、事件についてあるいは事件が起こるまでの詳しい経緯などについてはイメージがわきにくい。

また、「陰謀」というものは人を魅了する力がある。若者なら尚更新鮮にその面白みを感じるだろう。

教団の全盛期には1万人以上もの信者がいたという。

事件後に話題となったのが、逮捕されたものの多くがいわゆるエリート、つまり高学歴の若者だったことである。

「あれだけの高学歴で、なぜ新興宗教に!?」と大騒ぎしていた。

この問いに堀江貴文氏は著書『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』 (光文社新書) にてある答えを提示した。

「洗脳」に慣れた人たち

堀江氏は『第一章 学校は国策「洗脳機関」である』でこう語る。

でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルトに洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の眼に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。そんな風に感じたのである。

このすぐ後に「人生最大の大恋愛」をする人間を例に出す。

「人生最大の大恋愛」をしていた恋人と別れたあと、またすぐに「人生最大の大恋愛」をする友人は「恋愛すること」に常にスタンバイできているから、何度でも「人生最大の大恋愛」に浸ることができるのだ、と。

教団のシステムは「外」の社会と似ていて、高学歴であるほど上級職になりやすかったそうだ。

エリートは社会という枠組みから外れ入団した後も、麻原という「親」に認められるために上の位を目指した

結局若者は、以前となんら変わらないシステムの中にある「洗脳」へ鞍替えしたに過ぎないのである。

日本という国では、親と言う「誉めてくれる存在」と上を目指す「システム」とが、若者にとって無くてはならないものになってしまっているのだ。

学校がそれを「常識」として教えるのだと、堀江氏は結論付けた。

筆者も同感である。

この本を読む一年前に、私は偶然にも同じような主張を記事にした。

私は一年前に常識が洗脳であることに気づくことができ、また自分がその洗脳に支配されていたことにも気づくことができた。

私はなぜ堀江氏の著書に因らずこの洗脳に気づくことができたのか。

「信じる」<「考える」

「我思う、ゆえに我あり」

ルネ・デカルト

哲学においてもっとも有名な言葉と言っていいだろう。

ルネ・デカルトは哲学や科学云々を考えるために、まず何もかもを徹底的に疑うことにした。

数学や幾何学に表れる記号や数字は推論が含まれるので、これは信じるに値しない。

いま自分の目で見ている物体や現象も、自分の夢という可能性もある。

しかし、今こうして私自身があれこれ考えていることは私の存在を証明するに足る否定できない事実である。

デカルトはこのように「考える」行為は、「知る・認識する」という完全な観念に近づこうとする行為だと言う。

そして「信じる」という行為は「不完全であることを知らない状態」だと。

宗教あるいは「常識」を疑うことなく入れ込むことはつまり「信じる」ことである。

私はこの「信じる」行為だけでは生活が上手く行かなくなり、そこから抜け出すために、「どうしてか」考え、疑ったのである。

「調べる」前段階 前回こちらの記事で、頭が良くなる、博識にな...

「信じる」ことを疑うことはつまり、これまでに自分というものを形成した(してくれた)「学校」や「親」というものを否定することになり、ひいては形成された自分自身をも否定することに繋がる。

これには大変な精神的苦痛を伴う。

私という存在が疑いもせず今までそういう「洗脳」を甘んじて受け入れていたこと、またこの「洗脳」に気づいてしまったがためにいま自分がなにをどうすべきか五里霧中の状態になってしまったこと。

「洗脳」を認めたくないという意識も働いて、うつになった。

それでも私はこの「洗脳」から逃れることに努めた。

本を読み、疑い、考え、知る。また疑う。

この繰り返しである。

「考える」にはどうしたらいいか

なにもデカルトのように、自分の存在証明からする必要はない。

幸い、今日では多くの賢人によって書かれた著書にあふれている。

信じるという状態から脱するために考え、知るという段階を踏むのに、自分ひとりの力だけでは不十分である。

私が強く影響を受けた本の1つに厚切りジェイソン氏の著書がある。

彼は日本の常識という洗脳を受けていないから、当然そういう洗脳に疑問を持ち「Why?」と問いかけた。

そんな洗脳の外にいる人間の価値観によってのみ、洗脳は解かれるのである。

では、洗脳の下にあった堀江氏はどうして洗脳されなかったか。

彼は小学生の頃から、そういう大人の思惑を疑い、考え、洗脳にいち早く気づいた人間である。

彼のように気づくことのできなかった筆者のような人間は、先人たちの「知」に触れ、自分の「無知」を「知る」。その後でまた疑い、考える必要がある。

そうして「洗脳」という呪縛から開放されるのである。

まとめ

当ブログをすこし周ってみればわかると思うが、私は仏教からも影響を受けている。

だからといって、自分のことを仏教徒だと言うつもりはない。

仏教にある教えについても私は「疑う」のである。

初期仏教には今で言う「お悩み相談」のような雰囲気がある。

「死にたい」「苦しい」誰もが抱える悩みをブッダはなんとかしてその原因を突き止めようとした「同じ人間」なのである。

心理カウンセラーのように優しく語りかける彼の教えは、心の弱った人にとってはどんな薬よりも効き目を発揮する。

「洗脳」から解けた私にとってはもはや彼の教えは必要ないのかもしれない。

言い訳くさくなるが、私はひとつの学問・研究分野として仏教の本質を知ろうとするのである。

「神を信じなさい」「教えを守りなさい」。ブッダは決してこんなことは言わない。

常に「疑え」と。「物事には原因がある」と言うのである。

これをひとつの宗教とすることに、私は憤りさえ感じる。

哲学といってもいい。あるいは「最も人間らしく最も普遍的な営み」とも言える。

最後にもうひとつ、哲学から言葉を引用しよう。

「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」

ブレーズ・パスカル