SNS・いいね依存症を解消する最善の方法は無宗教をやめることではないだろうか |

SNS・いいね依存症を改善するひとつの方法は無宗教をやめることではないだろうか

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SNS・いいね依存

二週間ほど前の新聞に掲載された、ふかわりょう氏のコラム「いいねなんて、いらない」がSNS上で話題になりました。

写真をとる目的が後々、記憶を呼び起こすための手段ではなく誰かからの「いいね」をもらい承認欲求を満たすためだけのものになっている。

という趣旨のコラムでした。

ふかわりょう氏の考え方に僕は大いに賛成です。

人それぞれの価値観によるところですから、SNS・いいねに依存することが一概に「悪」であり「だめだ!」と言えることではない、という部分も同意できる点です。

それを承知した上でそれでも、SNSやいいねをもらうことを「心の拠り所」にしてしまうことはたいへん危険なことでもある、ということを主張します。

それと同時に、SNS・いいねに依存する原因が「無宗教」だからではないか、ということについても書いていこうと思います。

心のよりどころを「ネット」に持つということ

人によって自分の心の支えとなっていること、心の拠り所となっていることはさまざまだと思います。

竹馬の友と他愛もない会話をすること

テレビを見ること

音楽を聴くこと

そして「いいね」をもらうことに必死になる彼ら・彼女らの場合は「SNS」を心の支えとしていると言えます。

これは非常に危険な「心の拠り所」なのです。

ネットという実体のない世界で、全貌の見えない人間から「いいね」をもらい「認められた」と心を満たす。

これはタバコや麻薬と同じ中毒性のある行為だという研究結果が出ているようです

参考)いいね!やRTは麻薬と同じ!? SNS依存症を引き起こす。

つまりSNS・いいね依存は

「それをしている間だけ通常の状態でいることができる」という危険な精神状態になってしまう危険を孕んでいるのです。

たばこを吸う人間は、

「たばこを吸えば仕事の効率が上がる」だとか

「元気でいられる」だとか思いこんでいますが

吸わない人間からしてみれば

「たばこを吸ってやっと吸わない人間と同等の能率になる」

「たばこ吸ってやっと落ち着いて話してくれる」

という風にしか思いません。

これがSNS・いいね依存でも同じように起こっているのです。

そしてたばこを吸わない間、SNSに触っていない間はずっとそのことしか考えられなくなります。

だからこそ、「この店インスタ映えしそうだな」などというような基準でしか物事を見られなくなり

他の人間に悪い影響を及ぼすようになるんです。

依存の影響は自分にだけ及ぶものではない

僕の友人にもいわゆる「インスタバエ」がいます。

彼はインスタに上げるためだけに「愛・地球博記念公園」まで行って、セットのような小屋やらなんやらが立ち並ぶところで

撮影係と化した僕に小一時間、ああでもないこうでもないと指図しては撮りなおし・・・を繰り返していました。

一緒に行ったもう一人は、ただただ椅子に座ってスマホを弄っているばかりでした。

おかげで、当時を思い出そうと個人的に撮った彼の映っていない写真を見ても、

モデル気取りで斜に構える彼の姿が思い出されて良い気分にはなりません。

その後彼の要求はエスカレートし、貧窮している僕に「沖縄に行こう」と提案してくる始末です。

「半年もあれば旅費貯められるでしょ?」じゃありませんよまったく。

・・・少し個人的な感情が出過ぎましたね。失礼しました。

主流煙よりも副流煙の方が発がん性物質を多く含んでいることからもわかるように

SNS・いいねに依存した人間に及ぶ影響よりも、依存した人間の近くにいる人間に及ぶ影響の方が害があるというわけです。

SNSの、タイムラインに流れてきたう穿った見方をした意見に毒され友人らに

「これは悪だ!」と言ってまわることなんてもうサイアクですね。

「生きがい」とは異なる場所を「心の支え」とする

生きがいがない今日日、「生きがいは何ですか?」と訊かれて「これです」と...

と言いつつも、僕の「生きがい」はネット、このブログにあります。

ですが「心の支え」は別にあります。

究極的には「自分自身」、根本は「ブッダの教え」と言えるでしょう。

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僕と同年代の人間で「仏陀」や「イエス」といった存在に抵抗のない人がどれだけいるのでしょうか。

しっかり統計をとったわけではありませんが、少なくとも僕の周りで

神や釈迦に傾倒している人間は一人もいません。

依存=執着

ブッダ曰く、「この世のすべては自分の思い通りにはならない」

イエス曰く、「自分には何も誇るものはないと、罪に塗れていると認めなさい」

「いいねをもらいたい」と思う心がうまれるのは「自分が優れていると認めてもらいたい」という願望からだと思われます。

しかしそんな欲求への執着が「苦しみ」をうみ、自分の人生を辛いものにしているということは何千年も前からわかっていることです。

それなのに未だ何かに執着し、怒ったり泣いたりする人間が多いのはやはり「無宗教」であることが影響しているのではないかと思います。

信仰心は盲目ではない

無宗教である人間が、宗教に心を寄せる人間に対して思うことは「盲目」ということです。

「宗教の教えのみがこの世の理であり、真であると妄信している」とさえ思っています。

僕自身もそうでした。

これは特に「新興宗教」の影響が強いと推察します。

家まで押しかけて「入信しろ」と迫ってくる。

これが宗教全体への悪いイメージを植えつけたのだと思います。

ですから僕は宗教という言い方を好みません。

あくまでも個人の「教え」であるということに重きを置いています。

「教え」は「依存」ではない

この「教え」を信ずることは「盲目」でも「依存」でもなく

「より良い毎日を過ごすための智慧」であると思っています。

シッダールタもイエスも結局、根幹は同じことを説いています。

イエスの場合「神を信じよ」ということが主軸にあるので少し抵抗がありますが、つまるところ

「自己中心的になって犯した罪を認めないでいれば地獄に落ちるから、神にすべてを委ねなさい」ということを説いています。

イエスの教え、仏陀の教え、両方に共通して言えるのは「執着を捨てよ」ということなんです。

しかしこの教えの習得は非常に難しいものでもあります。

「結局執着しないということに執着しているのではないか」

という問答がうまれるからです。

しかしこの問答を超えることができると心に「余裕」が生まれます。

この状態は本当に心地の良いもので、SNS・いいねに依存するよりも気持ちの良い毎日を過ごすことができるようになるのです。

「余裕」がないからいいねに依存する

心に余裕ができるとすべてを許容できるようになります。

心に余裕がないから「いいね」で隙間を作って、なんとか感情を制御し他人を許せる自分を作り上げようとします。

仏陀の教えは、そんな風に心の余裕を無理やり開けさせるようなものではなく、

自分で自分を認めさせ、いつのまにか余裕ができてくるようにするいわば「維持療法」のようなものです。

最初のうちこそ「教え」を妄信し、周りも見えなくなるくらいに執着してしまいますが

少しずつ教えの真髄が見えてくると、もとのような「ああしたい」「こうしたい」という執着も

「教えがすべてだ」という執着もなくなるのです。

まとめ

・SNS・いいね依存が自分以外にも悪影響を与えることを自覚する

これが今回強く訴えたいことです。

・「教え」を読んでみる

これは次いでやってほしいことではありますが、強要はしません。

ただ、もしいま、「認めてもらいたい」という欲求に苦しんでいるのなら、改善したいと思っているのなら

仏陀の教えに触れてみてください。

それぞれの宗派には大きく異なる考え方がありますが

仏陀の、原始仏教と呼ばれる根本的な思想には

日々の生活を豊かにする「智慧」に溢れています。

『超訳 ブッダの言葉』では現代語訳にされたわかりやすい文章で教えについて知ることができます。

心を穏やかにするひとつの精神安定剤のようなものだと思って、一度読んでみてはいかがでしょうか。

僕を救ったブッダの教え 先日記事にも書きましたとおり、ぼくは一時期う...

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