【小説の醍醐味】比喩表現をマスターすることは小説をマスターすることといっても過言ではないのだ |

【小説の醍醐味】比喩表現をマスターすることは小説をマスターすることといっても過言ではないのだ

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あゝ美しき比喩表現

日本人は古くから「例える」ということについて考えてきました。

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の

長々し夜を ひとりかも寝む

柿本人麻呂

愛する人と会うことのできない長い夜を、山鳥の長く長く垂れ下がった尾っぽに例えた柿本人麻呂のこの歌は今から約1300年前に作られた歌です。

冬ごもり 思ひかけぬを 木の間より

花とみるまで 雪ぞふりける

紀貫之

それから200年後に紀貫之は降る雪を花と、それはもうロマンチックに例えています。

現代で比喩表現を巧みに操る作家といえば、やはり村上春樹でしょうか。

思いもよらない角度から物事を例え、読者に新鮮な驚きを与えることはやはり「本」という媒体ならではですよね。

かくいう僕もそんな比喩表現に心を奪われた人間の一人です。

おっと、これもひとつの比喩表現でしょうか。

文章を書いていると、無性に書きたくなるのもまた比喩表現です。

その中でも僕は「隠喩」にこれ以上ないくらいのロマンチックさを感じるんです。

ロマンチックで詩的で、背中と肩の間のところに毛虫を這わせたかのようなむずがゆさを感じるんです。

そうでなくとも、比喩表現の魅力に惹かれた方も少なくはないと思っています。

村上春樹がここまで人気になったのは、やはりそういうことだと感じます。

しかし素直に受け取ればここまでうざったい表現方法はありません。

それでも多くの日本人が「例え」に魅入られるのは、和歌に親しんだ古代人の血がやはり脈々と受け継がれているからだと推測します。

というわけで今回は、小説を書きたいと思っている方や既に書き始めているが思いのほか難航している方の手助け、

ひいては小説を敬遠しがちな方の本に興味を持つきっかけのひとつとなるよう、小説の醍醐味「比喩表現」についてご紹介したいと思います。

比喩表現の種類

ここまでで既に400字詰め原稿用紙の2枚は埋まるほどの文字数ですが、本題に入るための前置きにもう少し付き合ってください。

比喩表現と一口に言ってもいくつか種類が分けられます。

・直喩

・隠喩

・換喩

・提喩

この他に寓喩(寓意)擬人法なども比喩に含まれます。

直喩は「まるで・・・のようだ」「~のような・・・」「・・・のごとく」といった一番使われる比喩表現ですね。

隠喩は直喩のように必要な言葉はなく、「彼女は天使だ」というように比べる二つの対象のみで構成される比喩表現です。

今回はこの隠喩をメインに扱おうと思います。

換喩は小学生の時に食べ過ぎてよく叱られた丸いグミのようなそれはそれはおいしい・・・、これは肝油ですね。

換喩は日常会話でも良く使う表現方法です。

「太宰をよく読む」と言って本当に読むのは太宰の書いた「走れメロス」やら「富嶽百景」やらです。

小さいものを大きいものにまとめて言うのが換喩と言っていいでしょう。

対する提喩はその逆、大きいものを小さく例える比喩表現のことです。

「花見に行こう」と言って、見るのはたいてい「桜」ひとつです。

もう少し細かく分けることもあります。

「袖を濡らした」というような表現の仕方は「転喩」と呼ばれ、これは「換喩」のひとつともされています。

「転喩」も「隠喩」と同じくらいに美しいですね。

あとはことわざにあるような、本来の意味を読み手に考えさせる技法を「諷喩(ふうゆ)」と呼ばれます。

「帯に短し襷に長し」ということわざや、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」「虎の威を借る狐」という故事成語もこれに含まれます。

「諷喩」は「隠喩」の延長線上にあるといって差し支えないでしょう。

擬人法は、「隠喩」ともいえる比喩表現です。

「鳥が歌っている」「蝶が踊っている」これはたいへん美しい技法だと思います。

僕が「隠喩」を詩的に感じる理由

以上のように、比喩表現は大きく四つに分けられ、

とくに隠喩に関してはさらに細かく分けることができるということがおわかりいただけたとおもいます。

そしてこの複雑怪奇な隠喩に、僕は得も言われぬ美しさを感じているわけですがなぜそう感じるのか考えてみました。

隠喩 VS. 換喩&提喩

まず「提喩」や「換喩」との比較です。

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これらは前述の通り日常会話で何気なく使うことの多い比喩表現です。

そうしてあまりにも使いすぎた所為で僕は彼らの持つ、本来の美しさをとうに忘れてしまったということかもしれません。

これはやはり隠喩に軍配が上がります。

隠喩 VS. 転喩

そう考えると換喩に含まれる転喩について、隠喩と同じくらいに美しさを感じるのは普段あまり使わないおかげかもしれませんね。

「袖を濡らす」「枕を濡らす」

この表現は平安から用いられるたいへん美しい表現ですが、現代では小説でたまに見かけるくらいのものです。

もしこんな表現を会話で使うような人が目の前に現れたら僕はもう、一瞬で恋に落ちることでしょう。

というわけでこれは引き分けということにしましょう。

隠喩 VS. 直喩

これはもう僕の中では勝負になりません。

いやもちろん直喩も素敵な比喩表現だと思います。

むしろ多様性に富んでいるのは直喩の方かもしれません。

しかし僕の中ではどうも「冗長」過ぎると感じるのです。

文章的な長さも、読み手に与える思考のプロセスも、どうしても余計なものが多いと感じます。

村上春樹の「スプートニクの恋人」の一節を見てみましょう。

ぼくは嫌な汗をかいて目を覚ました。湿ったシャツがべっとりと胸にはりついていた。身体がだるく、脚がむくんでいた。まるで曇り空をそのまま飲み込んでしまったような気分だ。

決して村上春樹を批判するわけではありませんが、どうも長たらしく、書き手だけが例えることに満足しているような印象を受けるのです。

僕がもしこの一文を書くとするなら

『僕は嫌な汗をかいて目を覚ました。湿ったシャツがべっとりと胸にはりついていた。身体がだるく、脚がむくんでいた。気分が悪い。昨日は雨だったからな、曇り空を飲み込んでしまったんだろう。そうに違いない。』

まぁ好き嫌いはあると思うので、僕の一文が気に入らない方も多くいらっしゃることでしょう。

それに僕はこの「スプートニクの恋人」をしっかり読んだわけではないですから、勝手な前後関係(天気)も入れてしまっています。

それに僕の一文と、本来の一文では話し手の性格も多少変わってしまいました。

本来なら「曇り空を飲み込んだように気持ちがわるい」というだけに対して僕のほうは、「曇り空でも飲み込まなければ、自分がこんな気分になるはずがない」という話し手の、確固たる意思まで見えてしまいます。

村上春樹がこの発言にどれだけの含みを持たせたかったかは把握しきれませんが、話し手がよほど気分が悪そうに見えるのは後者だと思うんです。

つまり何が言いたいかというと、

隠喩のほうがむしろ素直な気持ちを伝えられるんじゃね?

ということです。

これは本当に勝手な思い込みですが、

「今わたしはひどく沈んでいる。まるで心に雨が降っているようだ。」

「雨が降っているよう」というから一度雨の降る様子を思い浮かべて、「ああ、雨が降っているみたいに暗い心持ちなんだな」という一テンポおいた理解になってしまうんです。

僕の思考回路を絵にするとこんな感じです。

「今わたしはひどく沈んでいる。心に雨が降っているんだ。」

と言った方がすぐに、思い浮かべた女性の心に雨が降っている描写が追加され悲壮感の漂う顔をしていることもわかるんです。

上の思考回路で言えば、足し算の過程をすっ飛ばして真っ先に心に雨の降る様子が思い浮かぶんです。

これはもう何度も言うように勝手な価値観ですから、あくまでも僕はこう感じるということです。

直喩と隠喩の違いを教えてください

こちらのブログで解説されている隠喩の部分を見ると

直喩なら「彼の姿は風のように消えてしまった。」と言えるところを隠喩にすると

「彼の姿は風だった。消えてしまった。」「彼の姿は消えた。風だった。」となりこれは不自然であると述べています。

たしかにこれでは説明が不十分に感じます。

ではこれでどうでしょうか。

「彼は風だ。またしてもひょうっとどこかへ消えてしまった。」

また余計な描写を増やしてしまったことを抜きにすれば、非常に詩的な表現だと思いませんか?

まとめ:小説書くなら隠喩をマスターしろ!

いくら直喩より端的に表せるといっても使いすぎてはうざったく感じます。

ここぞというときに隠喩を持ってくると読み手の感情移入の手助けになり、次へ次へと読み進めていきたくなるエッセンスになると思います。

基本的には直喩を用いて、飽きてきた段階で隠喩や転喩を用いるのも良いかもしれません。

なにより比喩表現に優れた小説はストーリーの優れた小説よりも、内容はどうであれ楽しげに感じます。

ぜひ、これを機会に比喩表現を気にしながら小説を読んでみたり、書いている小説に取り入れてみてください。

(PS.記事タイトルが「時効警察」のパロディであることに誰か気づいてくれたでしょうか)


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